
「保育園に落ちた。働きたいのに、働けない」。それは本人の意欲や能力ではなく、制度と環境の“すれ違い”が生み出す問題かもしれません。
今回ご紹介するのは、病院で管理栄養士として10年間勤務していた沙織さん(仮名)。育児休業を終え、復職の準備を整えていた彼女が直面したのは、「保育園の入園が決まらない」という、たった一つの退職理由でした。
保活に励み、認可保育園の申し込み書類を提出し、点数や加点制度と向き合った末に届いた「落選通知」。
声を荒げることなく、静かに職場を去っていった沙織さん。果たして企業は、こうした“静かなSOS”にどこまで気づけているのでしょうか?
※本記事は取材に基づいて構成されています。登場人物はすべて仮名であり、個人が特定されないようプライバシーに配慮しています。
目次
辞めたくて辞めたわけじゃない─「保育園に落ちた」だけで消えるキャリア
沙織さん(仮名・30代)は、管理栄養士として病院給食の現場に勤務し、10年間にわたり職場を支えてきました。育児休暇からの復職を目前に控えた2024年冬、彼女のもとに届いたのは、自治体からの「落選通知」でした。
保育園の入園選考は、定員・空き状況・加点制度・点数の競争といった複雑なプロセスの中で行われ、沙織さんの家庭は残念ながら落選。
認可保育園すべてに申し込み、必要書類も期限内に提出したにもかかわらず、「内定」には至らなかったのです。
——育児休暇を終え、復職に向けた準備は進めていたと伺いました。
沙織さん「はい。育児休業は2年間取得していて、復職タイミングは1月入園を前提に会社と調整していました。ですが、保活を本格的に始めたのが遅かったのもあり、申し込み締切ギリギリで書類を提出したため、結果がわかるのは12月下旬でした。」
——落選通知が届いたのは年末だったと。
沙織さん「はい。選考に落ちたとわかった瞬間、ある程度の覚悟はしていました。保育園が決まらなければ、退職もやむを得ないと判断していたんです。」
——保育園が見つからなかったことで、復職は断念せざるを得なかったということでしょうか?
沙織さん「そうですね。認可保育園はすべて落選で、認可外保育施設も調べましたが、通園距離や費用面を考えると現実的に難しくて…。自治体によっては認可外への補助がないらしく、子どもを預ける手段が見つからなければ、就労の継続は不可能だと判断しました。」
——会社側には状況を伝えていたのでしょうか?
沙織さん「11月の時点で、1月入園は厳しいかもしれないと伝えていて、保育園の空きがなければ復帰できないこと、最悪退職になる可能性もあることを相談していました。」
いくら育児休業を取得できても、保育園の定員や選考により入園が叶わなければ、復帰は現実的に難しい。保育制度と労働環境の間で起きているこの問題は、個人の事情ではなく、企業が向き合うべき社会課題です。沙織さん以外にも、多くの保護者が頭を悩ませています。
認可外保育園を薦められても、保育料は誰が払うの?
育休明けのタイミングで保育園に入園できなかった沙織さんは、会社から「認可外保育園を活用して、しばらくつなぐ」という選択肢を提案されました。しかし、そこには“利用できる人”と“できない人”を分ける、金銭的なハードルが立ちはだかっていました。
——保育園の入園が決まらなかった際、会社側からはどういった選択肢が提示されたのでしょうか?
沙織さん「認可保育園に落選した場合は、認可外で一時的に預けて、空きが出たら移るという方法もあると案内されました。ただ、私が住んでいる地域では、認可外保育施設でも自治体の補助が受けられない施設が多くて……」
——経済的な負担が大きくなるんですか?
沙織さん「そうなんです。月額でいうと5~6万円は違ってくる園もあって。そこに加えて通勤距離もあり、子どもを預けて働いたとしても、負担が上回ってしまう可能性がありました。」
——その時、どのような気持ちになられましたか?
沙織さん「お金を払ってまで復職しなくてもいいかなって、ふと思ってしまいました。もちろん、仕事は好きでした。でも、そこまでして続けるのは違うのかも…と。心が折れる瞬間って、案外こういう時なんだと思いました。」
認可外保育を活用する選択肢が存在しても、補助制度や企業からの支援がなければ、すべての家庭が等しく利用できるとは限りません。
選択肢は提示されていたものの、「実際には選べなかった」という沙織さんの声は、制度があることと、それが使えることは別問題であることを示しています。
企業は「認可外保育園があることを提示した」ことで役目を果たしたと考えていないでしょうか? その制度や提案が、本当に使える状態だったのかを振り返ることが、これからの人材定着には欠かせません。
両立できる未来が見えない──ロールモデル不在の職場が抱える不安
たとえ保育園の入園が叶っていたとしても、沙織さんが復職に不安を抱いていたのは変わりませんでした。その理由のひとつが、職場に「こうなりたい」と思えるロールモデルが見当たらなかったことです。
——育児と仕事の両立に対して、どんな不安がありましたか?
沙織さん「時短勤務で働いている先輩ママたちが本当にギリギリの状態で働いているのを見て、“自分にもできるのか”って思ってしまいました。決して誰かが悪いわけじゃないけど、“この先どうなるのか”がまったく想像できなくて…」
——育児と仕事の両立に対するプレッシャーを感じた瞬間だったんですね。
沙織さん「そうですね。体力的にも精神的にも、あれだけ忙しそうな姿を見ていると、自分はたぶん無理かもしれない”と思ってしまって。先が見えないことも不安でした。」
沙織さんは「働きたくなかった」のではなく、「働き続けられる未来が見えなかった」と語ります。
育児と就労の両立は、制度の有無だけでなく、日々の現場に見える“ロールモデル”の存在や、具体的な働き方のイメージのしやすさに大きく左右されます。多くの企業が「育児支援制度」や「復帰支援制度」を整え始めてはいるものの、それが使える・続けられると実感できるかどうかは、現場での運用と可視化にかかっています。
沙織さんが抱いた「両立は無理かも」という言葉は、制度設計そのものよりも“未来の見せ方”への問いかけなのかもしれません。
“保育園落ちたら辞める”を当たり前にしない。企業が向き合うべきこと。
「辞めたくて辞めたわけじゃない」——沙織さんが繰り返し口にしたこの言葉。その裏には、“制度がなかった”のではなく、“選べる選択肢”が提示されなかったことへの悔しさが滲んでいました。
——もし“辞める”以外の選択肢が提示されていたら、違う未来もあったと思いますか?
沙織さん「そうですね。たとえば、一時的に休職できる制度があれば、辞めずに済んだかもしれないと思っています。育休が終わった後って、“復職するか、退職するか”の二択のような雰囲気があって…。その中間がなかったんです。」
——なるほど。“保育園が見つかり次第戻れる”という柔軟な対応があれば…。
沙織さん「はい、現実的に助かったと思います。保育園って、4月以外でも空きが出ることがあるので、そのタイミングで戻れるような仕組みがあれば、復帰を考えていたと思います。」
——職場での勤務形態や配属先の選択肢についてはいかがですか?
沙織さん「私の業務は現場(調理)中心でしたが、本部の事務職や献立作成業務など、在宅でできる業務に異動できる可能性があれば、続けたい気持ちはありました。責任者の方が“将来的にそういう働き方も検討されている”とは話してくれましたが、当時はまだ制度として整っていなくて…」
——“制度がある”ではなく、“選べる状態になっていたか”が鍵だったわけですね。
沙織さん「そうですね。将来的にできるかもしれない、ではなく、今ある選択肢として提示されていれば、少し状況は変わっていたかもしれません。」
どれほど優れた制度があっても、それが“自分の状況で使える”と従業員が実感できなければ、離職は防げません。
例えば──
中堅企業A社では、保育園が決まらなかった社員に対して企業主導型の保育支援を導入する
IT企業B社では、復職後に完全リモートにする
こうした施策は、辞めたくない人をつなぎとめる具体策となっています。
「保育園の定員に入れなかったから退職」というケースに、どこまで備えられているでしょうか?
“制度を整えた”で終わらず、「誰が・どの場面で・どう使えるのか」まで丁寧に設計することが、これからの育児と就労の両立支援には不可欠です。
企業が拾えていない「続けたかったのに辞めた」人の声
沙織さんが会社を離れた理由は、職場への不満や人間関係のトラブルではありませんでした。仕事にはやりがいを感じており、同僚との関係も良好。それでも彼女は、復職を諦め、退職という選択をしました。
——職場での人間関係や仕事そのものについて、不満はありましたか?
沙織さん「いえ、全くなかったです。仕事は好きでした。現場は忙しかったけど、むしろその“バタバタ感”が自分には合っていました」
——それでも離職を選ばれた理由は…?
沙織さん「育児と両立できる環境がなかった。それだけです。仕事を続けたかったし、制度がもう少し柔軟であれば、続けられたかもしれません。辞めたいと思って辞めたわけではありませんでした。」
——ちなみに、退職面談を振り返って、何か良かったと思うことはありますか?
沙織さん「『エグジットインタビューいっと』を受けたことで、自分の中でも“なぜ辞めるのか”をちゃんと整理できたのも大きかったです。辞める理由を言語化して初めて、自分のキャリアをどう続けていくかを前向きに考えられた気がします。私は献立メニューを作りなどが好きです。保育園の問題が解決したら、何かを作る、そんな仕事に就業できたら嬉しく思います。」
沙織さんのように、声を荒げることなく、誰にも迷惑をかけず、静かに職場を去っていく人は少なくありません。
彼女たちは、周囲から見れば“円満退職”に映るかもしれませんが、その実態は「支援が行き届かなかったことによる機会損失」です。
制度の整備だけではなく、従業員が制度を活用しやすい文化や対話の場がなければ、本音にはたどりつけません。また、“静かに辞めていく人たち”の声を記録し、省みることがなければ、同じ理由での離職は今後も繰り返されてしまいます。
「保育園に落ちた」「両立が不安」——そうした表層的な理由の奥にある「続けたかったのに続けられなかった」。その声を企業が拾い上げる力を持ったとき、初めて“真の両立支援”が実現します。
企業は退職者の声を、ぜひ聞いてみてください。